さて当サイトにおいて、私がサンホセ市役所女性課で担当している女性の経済自立・起業支援の仕事について書いていますが、私はこの場所に、日本国政府の技術協力(ボランティア)として来ました。しかし私は、ジェンダーや女性支援の知識もなければ、国際協力や開発学の知識も一切持ち合わせていません。確かに、何の因果か私は”政策・メディア”という修士号を持っていましたが、取得した1999年の時点では、後にこのような形で活用できる日が来るとは一切思っていませんでした。大学院修了の年、日本で若年層キャリア支援・自立支援に関する非営利の会社の立ち上げ10年間代表者をして来た、どちらかと言えば、現場たたき上げの人間です。「日本で10年間経営をして来たから、その区切りに、コスタリカのために仕事をしてみたい。」単純に、純粋に、その気持ちでボランティアというものを志願し、ここにやって来ました。
ところが、国際協力という分野は、世界的に見るとこれはこれでひとつの学問体系として成立していて、相当に奥が深いもののように思います。まるでパズルか知恵の輪です。発祥の元は、西洋のようです。英国にはその学問専門の大学院があると聞きました。国家間の利益、受け入れ現場の利益、個人の利益、・・・。そして、お金の出所は、あくまでも派遣元政府。その一方で、どこまでその本質が浸透されているのか分からない”草の根(末端現場)こそが大事”というスローガン。世界という大きな流れの中で、国家間レベルの全体像を理解した上で、現場でどう動くことが望まれているのかを把握し、その狭間で個人の満足を満たしつつも、あくまで”人のため・他国のため”に働く。私にとっては、知恵の輪です。”自分でお金を出して、この商品を買いました。”とは、全く違うレベルの欲望が絡んでいるように思えます。私は日本で12年前に非営利事業を立ち上げ、日本国内で「非営利の事業」というものを広める役割の一助を担って来たつもりです。ですので、この手の知恵の輪は他の人より比較的得意とするところだと思っていました。しかし、今回ひょんな事から関わることになった”国際協力”という知恵の輪は、今の私には、まだ解けません。その本質的な理解には達していないと思います。本業界2年目の、まだまだ若造です。
国際協力という言葉の中に、どこかしら、「一方が上で、他方が下。一方が他方に”教える”。」という上下の構造が存在しているように感じるのは、私だけではないと思います。極端な話、「知らないどこかの国の未開人に対して、既に発達している文明人が何かを”教える”。」という構造です。いかにも、西洋人が好きそうな枠組みです。しかし教育業界の人間である私は、「単なるダイバーシティー、人間の多様性の問題ではないのかな?」と考えていました。誰かが上・下というよりも、異なる考え方・違う考え方をする、という見方です。
ところが。異国の地で現地の人と共に生活をする・仕事をすることは、そう簡単な話ではないようです。実はこの政府技術協力ボランティアのプログラムに参加する際、「そのような(上・下の”教える”構造)潜在イメージとは、実は誰の中にも存在しているものなので、知らない国で仕事をする場合は、十分注意するように。」といった研修を受けていました。にも関わらず、自分の中にも知らず知らずに色眼鏡が存在していたことや、無言の圧力で語りかけてくる”政府側の供与ロジック”にも驚かされ、「本当に難しいな。。」と思いました。実際にやってみると、頭の中で考えていたこと・想像していたこととは異なることが、多々起きます。それは、外側からだけでなく、自分の内側からも、です。
それでも、その上でも、敢えて正直に申し上げます。日本で現場たたき上げの人間が、その支援先の現場スタッフと共に働いて得た”本当に求められていること”の感触と、この枠組みで政府側から求められているであろう役割には、大きな差があるように思いました。うまく言えないのですが・・・、何かがずれているように思います。幸か不幸か私が選んだ国は「コスタリカ」という既にかなり開発された中進国であり、こと女性の経済自立・起業支援においては、私の目から見れば日本より遥かに進んでいる国です。そのため、私自身の個人的な感触は「フルフルで働いても、同等に仕事できる。」というものでした。実際、本当にそうだと思います。彼らは十分に優秀です。
日本も戦後、世界銀行の支援を受けて、東海道新幹線を引き、高速道路を引き、いわゆる”国際協力”を受けて来た国だと言われています。たかが60年前の話です。その頃の先人たちは、一体どんな気持ちで”先に開発された国の人たち”から、技術を教わって来たのでしょうか? 以前読んだ、高杉良(著)「小説 日本興業銀行」の中に、日本が戦後どのように復興を遂げて来たのか、そのプロセスが克明に書かれていたように思います。特に、最初1・2巻だったと思います。戦後のGHQが入ってきた際に、日本政府の人間・興業銀行の人間が、GHQの様子を伺いながらどう事業を構築して行くのかが記されていて、大変興味深く読んだ覚えがあります。しかし、そこで読んだ物語と、今私が目の前で体感していることは、もちろん国も時代も全く違うので比べようもありませんが、異なる感覚を受けます。いや。つまり。日本が受けた国際協力の頃とは、とっくに時代は変わっているのです。
回りくどく、なりました。
一緒に仕事をさせてもらっている市役所スタッフ・銀行関係者・政府関係者は、十二分に優秀で、純粋に楽しくお仕事させてもらっています。私はしょっちゅう、彼らから叱られますし、ケンカもします。日本とは全く異なる文化の違いから、異なるモノの見方を教えてもらいます。日本国政府の技術協力ボランティアとしてこの場所に来ましたが、私にとってそれは、いち市役所スタッフとして、彼らと同じ目線に立ち、コスタリカ人スタッフと共に働くことだと思っていました。それが、現場が最も求めていることであり、彼らが喜んでくれることだと思ったからです。
例えば、とある企業に2年間限定の契約で人が入ってきたとして、「自分が去った後に、彼らだけでは継続できそうもない。」といった理由で仕事に対する姿勢を変えるとすれば、それはおかしな話だと思います。仕事の仕方・やり方というのは、どちらかというと経験知で、特に事業構築やプロジェクトマネジメントは体験を通じて学ぶものではないかと思います。あたかも、大工の棟梁のように。このことは、日本人だからとか、コスタリカ人だかとか、そこに国籍はあまり関係ないように思います。日本人も、異なる経験を持った人材を採用した場合、その人が持つ経験知をどうやって組織に定着させるか(=学ぶか)を考えれば、共に働き、やって見せてもらい、その背中から学ぶことになるはずです。期間限定であれば尚更、むしろ「しっかり、やって見せて下さい。」が、自然な流れではないでしょうか?
私は、人材の足りない市役所において、新規事業立ち上げスタッフとして、資金調達もすれば、事業の枠組みの構築も、他機関とのアライアンス構築もしています。私が居なくなった後もスタッフが継続できるよう、体制・予算・人材も整えるよう心がけて来ました。もちろん、私は期間限定の人間です。去った後に継続されなければ、意味がありません。だからこそ、2年間という限られた時間に、その後5カ年は続く事業体制を整えたいという思いで、仕事をして来ました。「やって見せる。」ことで、気がつくと彼らがその方法を学んでいた。できるようになっていた。そんな形が理想ではないかと、思ったからです。
これが、私なりの”2009年~2011年、中米小国コスタリカの首都サンホセ市役所における、日本国政府の技術協力ボランティア”という仕事の仕方です。国際協力という知恵の輪は複雑すぎて、一概に「こうだ」とは言えないと思っているので、期間・地域・その他限定で書かせてもらいました。私は、サンホセ市役所女性課のいちスタッフであることを、とても嬉しく思っています。